石垣りん「今日もひとりの」

ビルが建つ
事務所が足りない、という
卑近な目的にかりたてられて
東京中にたくさんのビルが建つ。

そのかしましい響きの中で
今日
「また一人工事現場で死んだよ」
と、さりげない人々の物語り、

あの危険な生活の場から
木の葉よりも軽く
撃たれた小鳥よりも重く
どさり、と落ちて死んでしまった。

「それはね、一つのビルが建つには
たいていあることなんだ」
誰もが日常茶飯の中でそう言い捨てる
この近世の非情に対して
私たちは無力に相づちをうつのであろうか。

その眼の中に太陽を宿し
その胸に海をいだき
こころのぬくみで
花や樹を育てることのできる
この不可思議な生命、
どんな目的のためにも
むざむざと失ってはならないものが
たやすく否定されたりする。
たとえばひとつの建設
あるいは大きな事業のためには
〝やむを得ない〟などと、
だから 平和のためのいくさ
などともいえるのだろうか。

石垣りん『石垣りん詩集』(伊藤比呂美 編、岩波文庫)pp. 30-32、「今日もひとりの」より抜粋

石垣りんの詩を読んでいるけれど、日常の中に留まりながらその日常の内臓を抉り出そうとするような視点の持ち方はものすごく共感する。日常は綺麗なものとして消化されがちだけれど、ほんとうはドロドロとした汚い側面も多量にあり、そういうところはスルッと通り過ぎてしまう。

「平和のためのいくさ などともいえるのだろうか」とあるように、戦争を強く連想させるのは、1951年ごろに書かれた詩だからだと思う。人の命を奪うことのモチーフと戦争とが、あまりにも自然に連結されている。
僕にとっての東日本大震災やコロナ禍が似た体験のような気もするし、全く逆の体験であるような気もする。校門に、「放射線量が少しだけ上がっているよ」と言っている無機質な放射線量計がいつの間にか設置されていて、その横を何くわぬ顔で通過していた自分の生活のなんとも言えなさのことをよく思い出す。